黒柳徹子さんの家族構成は父親、母親、兄弟5人の7人家族。黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱 さんの職業はバイオリニストで「ゴジラ」の奏者も。母親・黒柳朝さんはエッセイストの仕事に就いている。
黒柳徹子さんの実家の場所は東京都大田区北千束。家族エピソードとは…
いつも華やかな黒柳徹子さん、元気な姿はみんながパワーをもらっている。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより
黒柳徹子 家族構成~父親・母親・兄弟姉妹は何人?~
黒柳徹子さんの家族構成や兄弟は何人いるのか兄弟構成が話題ですが、父親、母親、兄弟姉妹5人の7人家族。父親の名前は黒柳守綱さんといい、母親は黒柳朝さんといいます。
黒柳徹子さんの両親、父・黒柳守綱さんと母・黒柳朝さんの馴れ初めは、音楽にチカラを入れていた大学時代にベートーヴェンの公演『第九交響曲』を共にしたことでした。
会話を重ね意気投合し、のちに結婚すると5人の子供が誕生。黒柳徹子さんは兄弟の中でも1番上で、末っ子とは年齢が24歳差あるとのこと。
父親・黒柳守綱 (くろやなぎ もりつな) バイオリニスト
母親・黒柳朝 (くろやなぎ ちょう) エッセイスト
長女・黒柳徹子 (くろやなぎ てつこ)
長男・黒柳明兒 (くろやなぎ めいじ) 9歳で他界
二男・黒柳紀明 (くろやなぎ のりあき) バイオリニスト
二女・黒柳眞理 (くろやなぎ まり) エッセイスト
三男・黒柳貴之 (くろやなぎ たかゆき) 外資系航空会社の社員
黒柳徹子さんが家族と暮らした子供の頃は昭和の初期。
太平洋戦争が始まってから2年半が過ぎた1944年4月に妹の眞理さんが誕生しましたが、同年5月に長男・明兒さんが敗血症のため9歳で他界しました。
勉強もできてバイオリンも上手だった弟・明兒さん。黒柳徹子さんはいつも一緒に遊んでいましたが、ほとんど記憶に残っていないそうです。
それは現実を受け入れるのがつらいから。当時の両親が悲しむ姿も記憶に残っていないのだとか。弟・明兒さんの死はよほどショックだったのでしょう。
弟・明兒さんは純朴な心をもつ少年。最期に次のような言葉を残しています。
「神さま、僕(ぼく)は天国に行きますけれど、どうぞこの家の人たちが、平和で楽しく暮らせるようにしてください」
引用:2024-04-19「婦人公論.JP」黒柳徹子 開戦後に亡くなった弟のことを「なんにも覚えていない」理由とは。ようやく疎開先が決まったそばから東京に戻ることになり…
弟・明兒さんが亡くなり3カ月ほど経つと、母・朝さんは戦争による食糧難から、小さい子供3人を連れて疎開することを決意しました。
黒柳徹子さんの父・守綱さんの実家はなく、母・朝さんの実家は北海道。遠方のため頼ることができず、関東から近い場所で探すことに。
仙台に親戚がいましたが「ここは空襲があるだろう」と予想し、福島の飯坂温泉へ。このあと母・朝さんの予想は当たり、仙台はB29の大空襲に見舞われ市街地は焼け野原となりました。
母・朝さんはそうした洞察力のある女性。飯坂温泉は食料が手に入りやすく、疎開先として落ち着くと、母・朝さんは夫である守綱さんに電報を打ちます。
すると即返事があったものの、それは「召集令状が来た」という内容でした。このとき黒柳徹子さんは11歳。子供の頃は戦争の真っただ中で、家族で苦しい時期を送っています。
こうした11歳からの父親や母親、兄弟姉妹との経験は、2023年に発売された著書「続 窓ぎわのトットちゃん」(講談社)に記載されています。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより
1945年8月、終戦を迎えると黒柳徹子さんは東京に戻り、トモヱ学園、香蘭女学校中等科・高等科、東洋音楽専門学校(現:東京音楽大学)の声楽科を卒業。
卒業後は夢だったオペラ歌手をあきらめ、1953年1月に「NHK放送劇団」の一員となり女優の道へ進みます。
翌月、テレビ放送が初めてスタート。黒柳徹子さんはテレビ女優の第一号としてデビューしました。両親が見守る中、20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週10本に。
30代になっても父親や母親と暮らしていましたが、38歳のときに仕事を全部やめ、実家を離れて単身ニューヨークへ。
「本場、アメリカのブロードウェイで演劇の勉強をしたい」
、黒柳徹子さんは自身のインスタグラムを更新し、実家暮らしを次のように振り返っています。
私は、実家で暮らして、実家から仕事場に通っていた。それまで、家事を、一切したことがなかった。
「私、このままの状態で、芸能界の仕事をし続けたら、何んにも、知らない大人になっちゃうなぁ!」と考えてた。
黒柳徹子:「朝リンゴをむいて出かけて、帰ったら台所にリンゴの皮があってびっくりしたの。”そうか、片づけてくれる人は誰もいないんだな” って。」
一人暮らしの何もかもがはじめての経験で、毎日が楽しい日々。
投稿した写真は、演劇学校の同級生に黒柳徹子さんのアパートでランチをご馳走して、お皿を洗ってるところだそうです。黒柳徹子さんの若い頃はとてもキュート。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより
黒柳徹子 父親や母親と暮らした実家の場所
黒柳徹子さんが生まれたのは、東京府東京市赤坂区乃木坂(現:東京都港区赤坂)。
その後、父・守綱さんの音楽の練習場が洗足池の近くに移ったため、家族で旧東急目蒲線「洗足駅」に近い東京・大森区北千束町に移住しました。
現在、北千束(きたせんぞく)は東京都大田区にあります。
2023年に公開された黒柳徹子の幼少期をアニメ化した映画「窓ぎわのトットちゃん」では、実家の様子がわかる映像が盛りだくさん。
黒柳徹子さんは映画化するにあたり、実家のベランダや温室の記憶を頼りに思い出して間取り図を描いています。
ただ、北千束地域の風景については資料がほとんど残っておらず苦戦。北千束の歴史に詳しい方に協力を得ながら、再現していったのだとか。
黒柳徹子さんの実家があった場所や父・守綱さんの練習場があった洗足池付近など、地域一帯を映画のロケハンが周り、想像を膨らませ確認したといいます。
◆グーグルマップ「東京都大田区北千束」
現在、実家は両親が他界しているためありませんが、黒柳徹子さんは素敵な自宅でひとり暮らし。ときにはチワワとマルチーズミックス犬・ドルちゃんが遊びにくるようです。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより
黒柳徹子 父親の職業に「ゴジラ」奏者も~学歴・経歴~
黒柳徹子さんの父・守綱さんの最終学歴は「東京音楽学校 (東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身)」。職業はバイオリニストで音楽家の仕事に就きました。
華やかな経歴の持ち主ですが、中でも1954年に公開された映画「ゴジラ」のテーマ音楽をバイオリンで演奏しています。
黒柳徹子:「一番最初のゴジラには、私の父のバイオリンが入ってるんです。どうしてもバイオリンのいい音がほしいと頼まれて。」
父・守綱さんは演奏家として才能を発揮し、映画「ゴジラ」シリーズの第1作において、作曲家・伊福部昭の要望で録音に参加しました。
スタジオでのレコーディングは、40名ほどのオーケストラで演奏されています。迫力あるあのテーマ曲は誰もが一度は聴いたことがありますね。
◆黒柳守綱(くろやなぎ もりつな) プロフィール
生年月日・1908年6月20日
出身地・東京府
学歴・東京音楽学校 (東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身)
職業・バイオリン奏者
守綱さんの父親は「カトリック本所教会」の長老。8歳の時に父親が亡くなり、兄とともに12歳で三越呉服店で働き始めました。
1920年に三越少年音楽隊へ入隊。同楽隊は吹奏楽団でしたが宮内省より東儀哲三郎氏の指導を受け、管弦楽も演奏するようになりバイオリンを学びます。
その後、1922年に三越少年音楽隊は解散。
ハタノ・オーケストラを経て、日本交響楽協会へ。1932年頃、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」のステージに出演しタンゴを演奏しています。
1937年、新交響楽団(現:NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターに就任。1942年より東京弦楽四重奏団としても活動し、毎日新聞優秀演奏家賞を受賞しました。
東京放送管弦楽団にいたところ、1944年に召集されて満州へ出征。敗戦後にシベリア抑留されるも、1949年末に帰還し、東京交響楽団のコンサートマスターに就任しています。
偉業を成しえた父・守綱さん。これまであらゆる俳優が黒柳徹子さんの父親役を演じました。
- 世良公則 – 連続テレビ小説『チョッちゃん』
- 田中秀幸(声) – 劇場アニメ『チョッちゃん物語』
- 吉田栄作 – テレビドラマ『トットてれび』
- 山本耕史 – テレビドラマ『トットちゃん!』
- 小栗旬 – 劇場アニメ『窓ぎわのトットちゃん』
黒柳徹子 父親が戦争へ~死因は心筋梗塞 享年74歳~
1944年、父・守綱さんは招集令状が出て軍隊に加わり、中国やシベリアの戦地へ向かいました。
このあと母・朝さんは東京大空襲で真っ赤になる空を見て、子供3人を連れて疎開することを決意。
1941年に始まった「第二次世界大戦」、日本とアメリカなどの連合国と戦う「太平洋戦争」はしばらく続きました。
黒柳徹子さんは当時は8歳。当初は家族みんな実感が沸かなかったそうですが、近所の人に召集令状が届いたり、食糧が不足して店で物が売られなくなったり、配給制に切り替わったことで異変を感じたのだとか。
難をくぐり抜け、黒柳徹子さんは母・朝さんと兄弟と終戦を迎えましたが、一向に父・守綱さんが帰ってこなかったといいます。
帰国できなかった理由は捕虜になっていたから。父・守綱さんがバイオリニストということが相手軍に知られてしまい、「日本人収容所」の各地を回る慰問団を結成させられいたとのこと。
黒柳徹子:「ソ連からバイオリン渡されて “弾け” って言われて、日本の捕虜の慰問して。それで遅くなったんです、父が帰ってくるの。」
父・守綱さんは心身疲れ切った日本の捕虜を癒やすため、バイオリンを弾く役割を務めていたのだとか。
家族写真を軍服のポケットに入れて戦地に出向いた父・守綱さん。そんな父親と久しぶりに再会するときは照れくさかったそうです。
父・守綱さんが戻ってきたのは、終戦から4年ほど経ったとき。黒柳徹子さんは母・朝さんと一緒に品川駅まで出迎えに行きました。
家族そろっての生活を迎えられましたが、黒柳徹子さんの父・黒柳守綱さんは1983年4月30日に心筋梗塞により74歳で他界。
訃報を聞いたときは「徹子の部屋」の収録前でしたが、司会を気丈に務めています。
このあと黒柳徹子さんは、自身のYouTubeチャンネル「徹子の気まぐれTV」にて、両親との思い出を語っています。サムネイルには黒柳徹子さんの父親と母親の写真画像を掲載。
こんにちは、黒柳徹子です。 終戦から78年が経ちます。 今回は、戦争で私が体験したことをお話しします。 当時の食糧事情、父の出征、両親の秘話など、 今だからこそ若い世代にも届いてほしいメッセージです。 どうぞ、ご覧ください。
◆黒柳徹子さんの父親と母親の写真画像 (サムネイル)~YouTube「徹子の気まぐれTV」より~
黒柳徹子 母親の職業は随筆家~学歴・経歴~
黒柳徹子さんの母・朝さんの最終学歴は岩見沢高等女学校(現:北海道岩見沢西高等学校)。その後に東洋音楽学校 声楽科(現:東京音楽大学)を中退しています。職業は随筆家 (エッセイスト)の仕事に就きました。
1910年、北海道で生まれた母・朝さん。実家は病院を経営をしており開業医の娘。東洋音楽学校の在学中に守綱さんに見初められ、結婚しています。
そのため音楽への夢は志半ばであきらめ、東洋音楽学校を中退。1982年、72歳のときに自伝的エッセイ「チョッちゃんが行くわよ」でエッセイストとしてデビューしました。
エッセイはベストセラーになり、雑誌「主婦と生活」でも連載。子育てなどをコミカルに表現し、楽しい語り口調で人気を集めています。
1987年にはNHKの連続テレビ小説で「チョッちゃん」としてドラマ化。1993年に出版した「チョッちゃん物語」は、1996年に同名でアニメ映画化されました。
その後も「バァバよ大志をいだけ」などの随筆を亡くなるまで出版。これまで100冊ほど世に送り出しています。
ほかにも北米の在留邦人への講演旅行や教会へのボランティアなどを率先して行いました。
◆黒柳朝(くろやなぎ ちょう) プロフィール
生年月日・1910年9月6日
出身地・北海道空知郡滝川町(現:滝川市)
学歴・岩見沢高等女学校(現:北海道岩見沢西高等学校)、東洋音楽学校 声楽科(現:東京音楽大学)中退
職業・随筆家 (エッセイスト)
黒柳徹子 母親は気丈な性格~死因は心不全 享年95歳~
黒柳徹子:「母は、父からものすごく大事にされてました。」
まだ戦争が起こる前の平和な時期、母・朝さんは父・守綱さんと出かけるときにはお化粧に念を入れ、おしゃれにしていたのだとか。
それは父・守綱さんの楽団公演を観に行くときも同じ。しかし戦争が始まると一転し、疎開先ではモンペを履いて大きなかごを背負い、たくましくなっていったそうです。
黒柳徹子さんはそんな母・朝さんの姿に驚きの連続。
当時、母・朝さんは30代、小さい子供を3人も抱えて空襲を逃れなければなりません。そして子供たちを食べさせるため毎日働きづくめ。
食料を確保するのはもちろん、のちに空襲で焼け落ちた東京の自宅を再建しました。
黒柳徹子:「本当にすごいなと思いますし、母には感謝しています。」
敗戦後、待ち続けていた愛する夫・守綱さんの帰国ですが、思いもよらぬ噂が流れます。
「シベリアの捕虜収容所の抑留中に逃げ出したことで亡くなった」
母・朝さんは「慎重な人だから脱走はありえない」と、冷静で気丈に振舞っていたそうです。
しかし戦地からの引き揚げ船がつく真鶴港に手紙を書いたり、ときには兵隊が帰還する汽車の窓に頭を突っ込みながら叫び続けました。
「黒柳守綱のバイオリンを聴いた方はいませんか!?」
夫からとても大切にされていた朝さんですが、同じく夫を心から愛していたようです。黒柳徹子さんの家族愛はここにすべて詰まっているような気がしました。
夫の帰りを4年という長い月日をかけて待った母・黒柳朝さんですが、2006年8月16日午後4時31分、東京都内の病院にて享年95歳で他界。死因は心不全でした。
葬儀は近親者のみで執り行われ、喪主は二男の長男紀明さんがつとめています。
直前まで元気だったという母・朝さん。黒柳徹子さんはインタビューで母親と他界間際にかわした会話内容を明かしました。
黒柳徹子:「 “ママが100歳になったらインタビューしていい?” と聞いたら、”どうせするんだったら 95の今、したほうがいいわよ” と言われて、いろいろなことを聞いたんです。」
自分が生まれる前のことや、両親について新たにわかったことも。黒柳徹子さんは母・朝さんの思いを込め、2006年に著書「チョッちゃんは、もうじき100歳」を出版しています。
黒柳徹子さんは母・朝さんに「将来、カメラマンになりたい」という夢を伝えていたかもしれません。20代のとき夢中になっていたようです。
実は私、カメラマンになろうかと思ったくらい写真に夢中になっていた時期がありました。最初の2枚は、20代頃で、ロールフィルムの前の写真機ですね。
3枚目は、私が使ってきた歴代の一眼レフカメラです。
私が撮影した動物の写真集も出版されて、前書きを、何と篠山紀信さんにお願いしました。今思うと、恐れ多いことです。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより
黒柳徹子 父親や母親との戦争時代を語る
2024年8月11日放送のテレビ朝日「徹子の部屋『戦争』を忘れない~櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶~」では、黒柳徹子さんが父親や母親、兄弟と暮らした戦争時代を語りました。
今回の放送のきっかけは櫻井翔さんが「徹子の部屋」で長年取り組まれた「戦争特集」を知り、黒柳徹子さんに「戦争の話を聞きたい」と手紙を送ったこと。
およそ1年かけて「黒柳とテレビの歴史」について取材を続けた保存版です。実家の両親や兄弟姉妹と過ごした当時の戦争体験とは…。放送回に注目です。
◆黒柳徹子:関連記事
◆2024年8月11日放送のテレビ朝日「徹子の部屋」黒柳徹子 番組内容詳細
番組のきっかけは、櫻井さんが黒柳に宛てた1通の手紙。「徹子さんから戦争の記憶を伺いたい」ーそんな思いを受け、約1年にわたり対談を重ねた2人。その中で、櫻井さんに強烈な印象を与えたのは、『徹子の部屋』で語られてきた数々の“戦争の記憶”だった。
戦闘の最前線で戦っていた三波春夫さん、長崎の原爆に遭った美輪明宏さんなど、スターが語る戦争体験を貴重な映像で振り返ります。自身も空襲を経験した黒柳が語る記憶は…
さらに、長く“戦争”の取材を続けてきている櫻井さんだからこその独自取材も公開。シベリア抑留経験者である亡き祖父の体験を絵画で語り継ぐ美術作家の千田さん。攻撃で沈没し多くの犠牲者を出した学童疎開船「対馬丸」の映画を制作する寿大さん。
櫻井さんと同年代の方々の活動にもスポットを当てます。
79回目の終戦記念日を間近に控え、平和への願いを新たにするー。
◆「徹子の部屋」公式 X (旧:Twitter) より
今週は、#櫻井翔 さんが10年ぶりに出演!
8月8日(木)放送予定!
お楽しみに✨そして、櫻井さんの希望で実現した「徹子の部屋 特別編」が放送されます。
『徹子の部屋 「戦争」を忘れない
~櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶~』
8月11日(日)午後1時55分
※一部地域を除く pic.twitter.com/qi61NLeBwh— 徹子の部屋【公式】 (@TETSUKO1976) August 5, 2024
黒柳徹子 プロフィール
本名・黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)
生年月日・1933年8月9日
出身地・東京都
血液型・A型
身長・163センチ
学歴・トモエ学園、香蘭女学校、東洋音楽学校声楽科卒(現:東京音楽大学)
職業・女優、タレント、作家
東洋音楽学校を卒業後、オペラ歌手をあきらめて俳優募集の広告に応募。1953年にNHK放送劇団「文学座」を経て、NHK専属のテレビ女優第1号としてデビューしました。
女優になった理由については、「母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったから」と話しています。
1954年、NHKラジオ第1で放送された主演ドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」がスタートし、「ブーフーウー」や「夢であいましょう」などの人気番組に出演。
20代後半にはレギュラー番組が週10本になり、過労から1か月入院生活を送ったことも。1976年からは日本初のトーク番組としてテレビ朝日「徹子の部屋」がスタート。
「徹子の部屋」は、2023年9月12日の放送回をもって同一司会者によるトーク番組の最多放送1万2100回で、ギネス世界記録を更新しています。
著書「窓ぎわのトットちゃん」「続 窓ぎわのトットちゃん」は世界的ベストセラーに。これまで社会福祉活動に力を注ぎ、ユニセフ親善大使としても活躍。
黒柳徹子さんは日本でテレビ放送が開始された初日から、2024年現在までテレビに出つづけています。
◆黒柳徹子さんのインスタグラムより