戸田奈津子 現在の病気 左目手術 加齢黄斑変性「両目が失明なら」

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2023年の誕生日で年齢87歳を迎えた映画翻訳家の戸田奈津子さん。これまで命に係わる大病をしたことはありませんが、加齢黄斑変性で左目の視力を失うといった病気を患いました。手術すること2回。現在はどのような症状なのでしょうか。

↓ トム・クルーズさんの吹き替え担当、森川智之さんのTwitterより

戸田奈津子 今まで命に係わる病気なし?更年期障害も

40歳の時に字幕翻訳家としてデビューした戸田奈津子さん。60代までおよそ年間50本、毎週1本というペースで洋画の字幕翻訳を続けてきました。

1日24時間のうち、睡眠は6~7時間。残りの時間はすべて仕事に費やしていたといいます。そうした日々を過ごしていましたが、これまで命に係わる病気は一切患ったことがないのだとか。

おまけに、ほとんどの女性が経験するという更年期障害についても一切なし。

戸田奈津子:「更年期障害も仕事が忙しくて、いつの間にか過ぎちゃった (笑)」

この元気の源はどこから来るのでしょうか。運動嫌いの戸田奈津子さん。70歳を過ぎてから周りに勧められてスポーツジムに行くも、真剣に取り組むことなくシャワーを浴びるだけで帰宅。

映画をきっかけに憧れたタップダンスを少々かじるも、一時的だったようです。

戸田奈津子:「何が体に良いとか考えたこともありません。食べたい物を食べたいだけいただいて…」

お酒好きでよく自宅で飲むそうですが、「お酒でちょっと太ってしまった」と意識するなど、キュートな部分もあります。体の痛みといえば、肩凝り症のためマッサージに通ったことがあるくらいだそう。

なぜ健康でいられるのかというと、「ストレスを貯めないことが大切」とのこと。やりたいことをやって過ごすのが戸田奈津子流。

戸田奈津子:「私がこれだけ元気なのはストレスを一切排除しているから。」

自分の年齢を意識したことは一度もなく、老いで気持ちに負けたことはありません。しかもポジティブ思考で、日頃くよくよしたり落ち込んだりすることもなし。

60代になっても70代になっても「これからが人生だ!」という気持ちで前を向いてきたそうです。そうすると、自然と友達も増えていくのだとか。

80代ともなると友達が減っていくことが多いですが、戸田奈津子さんは今、50代から60代の友達が増え、メルアドを交換して一緒にご飯を食べに行くことも。

「グルメ」という共通の趣味を通じ、美味しいレストランがあるという情報を聞けば、少々遠くても出向くといいます。こうした好奇心旺盛な性格とポジティブ思考が、大病を患わずにいる理由かもしれません。

戸田奈津子 病気よりケガ「骨折」

いつも元気な87歳の戸田奈津子さんですが、2019年頃に家の近所の横断歩道でタクシーにはねられて、2か所を骨折しました。

初めのうちは松葉杖をついて歩いていたそうですが、不思議とすぐに骨がくっついてくれたのだとか。女性は40代から始まる更年期を迎えると、カルシウムの吸収が悪くなり、骨粗しょう症になりがち。

戸田奈津子さんは日頃の食事でじゅうぶん栄養を取れていると感じ、サプリに一切たよらない生活を送っています。骨は少々もろくなっていたとしても、すぐに元通りに骨がつながったことに驚きです。

さらに2年後の2021年には、朝起きたら肋骨が折れていたのだとか。

戸田奈津子:「なんか痛いなと思って…なかなか治らないから医者に行ったら “折れてます“ って。」

この時も放っておいたら自然に治ってしまったといいます。当時85歳にして、恐るべし回復力。

例えば高齢の方が転倒して骨折をすると、その経験で歩くことに不安や恐怖を感じたり、歩くことへの自信を失ってしまい、「転倒後症候群」になる可能性もあります。

ポジティブ思考の戸田奈津子さんには、こうした気持ちは一切起きないのかもしれません。

戸田奈津子:「今もね、家具にぶつけた足の小指が折れて治りかけなんですけど、でも大丈夫。」

戸田奈津子 目の病気「加齢黄斑変性」を発症

これまで命に係わる病気は一切なかった戸田奈津子さん。1994年、58歳の時に「加齢黄斑変性 (かれいおうはんへんせい)」と診断されました。

◆「加齢黄斑変性」とは

網膜の中心にある黄斑に異常が生じ、視野が欠損したり、物の形がゆがんで見えたり暗く見えるなどの症状が起こる病気です。黄斑変性は加齢や強度の近視などの理由で黄斑に障害が生じます。

戸田奈津子さんの父親と母親は近視。それが遺伝したためか、自身も中学1年生の頃からメガネをかけており、強度の近視が原因で患ってしまったようです。

また、戸田奈津子さんは子供の頃から映画や読書、芝居の観劇などが大好き。仕事柄、文字を見ることが多く、目を酷使してきました。

まず障子の桟 (さん)やグラフ用紙の線がゆがんで見えてきたそうで、都内の病院を受診したところ、医師が強度の近視が原因の黄斑変性と診断。

2014年12月9日放送のフジテレビ「ノンストップ!」にて「左目がほぼ見えない」と告白しています。衝撃的な内容から、たちまち各メディアがネットニュースとして取り上げました。

戸田奈津子:「片方の目で見ると真っ黒け。焦点にしているところが見えないの。」

70歳になるとさらに症状が悪化し、字幕の仕事にも支障が出てきたため、ペースを考えながらこなしていたのだとか。

戸田奈津子:「字が読めないのはとっても不便ね。それに距離感もないでしょう。よく階段も落ちるし人の顔は見えないですし。」

当時は右目に頼り、文字は時間をかけてゆっくり読んでいました。

さらに自宅では目が見えないことから、階段を踏み外して左肩を骨折してしまったそうです。戸田奈津子さんにしては珍しく、「字が読めなかったら生きている甲斐がない」と弱音を漏らす場面も。

しかし、「この仕事だけは続けていきたい。折った骨は必ずくっついて治るんだから、心配することはないんです」と最後には前を向いていました。

戸田奈津子さんは「加齢黄斑変性」と闘い、思い通りに行かない苦しい時期もあったようです。

戸田奈津子 目の病気で手術2回「加齢黄斑変性」

60歳の頃から加齢黄斑変性の症状が強くなり、以来、右目で仕事をしている戸田奈津子さん。当時は「若い頃みたいな馬力はない」と弱音を吐くこともありました。

それは、「治療法がない」と医師に告げられから。「もう一生だめなんだ」とネガティブになり、ショックを受けたそうです。

そこで気持ちを和らげるため、母親と一緒に静岡県へ熱海旅行。温泉に浸かると心が落ち着いてきたのだとか。

戸田奈津子:「目が2つあってよかった!右目が残ってラッキーだ!って思えるようになりました。」

「旅をしよう!」といったアクティブなところも、立ち直れた理由かもしれません。このあと新たな治療法が開発されたことを知り、2014年、78歳で手術を受けることに。

ちょうどセカンドオピニオンを求めていた時、実際に手術を受けた友人でタレントのピーコさんから、有名な神奈川県小田原市の「佐伯眼科クリニック」を紹介してもらったそうです。

目の奧に麻酔注射して眼球に直接メスを入れるという、黄斑前膜をはがし網膜分離症を治す手術。無事に成功し、「100%は見えないけど、ずっと良くなった。治療法があることを多くの人に知ってほしい」と喜びを伝えました。

のちに再び回復を試みて、戸田奈津子さんは2度目の手術を受けています。完全な回復には至っていませんが、前を向いて過ごす姿は感銘を受けました。

戸田奈津子:「両目が見えなくなったら大変だと思うけど、本当にラッキーに右目は生きているのよ。それだけで十分。」

今、エンドロールに流れる「字幕翻訳 戸田奈津子」という名前を観客が見た時、「この映画、楽しかった!」と思ってもらえるのが一番うれしいと話しています。

戸田奈津子 目の病気「加齢黄斑変性」現在の症状

術後の経過は良好で、見えていた頃の7割まで回復して戻っているとのこと。

戸田奈津子:「病は気からっていうじゃない。」

実際、身近にひそむ風邪にも、精神力を持てばある程度は跳ねのけられると考えているのだとか。そして年に2回は健康診断を受診。

現在のところ数値も全て良く、医師からは「この年齢で珍しい」と言われているそうです。戸田奈津子さんは現在の健康状態について、このように話しました。

戸田奈津子:「どんなに忙しくても徹夜はしたことはありません。5時間以上寝ないと能率が落ちますから。」

やはり基本的な「睡眠」「ストレス」が健康に大きく関わっているように思えます。さらに、結婚しないことでストレスがない!?  戸田奈津子さんの「結婚」についてはこちらです ↓

戸田奈津子 プロフィール

本名・戸田奈津子 (とだ なつこ)

生年月日・1936年7月3日

出身地・東京都

血液型・B型

学歴・お茶の水女子大学附属幼稚園、お茶の水女子大学附属小学校、お茶の水女子大学附属中学校、お茶の水女子大学附属高等学校、津田塾大学学芸学部英文学科 卒業

1歳の時に戸田奈津子さんの父親が戦死したため、東京にある母親の実家に転居。兄弟はおらず、ひとりっこの戸田奈津子さんは子供の頃の遊び相手は本でした。

中学時代から映画を観に行くようになり、高校時代では名画座などに通い詰めます。大学卒業後は生命保険会社の秘書を1年半ほど勤めますが、制服を強要されるなど窮屈に感じ退職。

そこで、映画好きと英語好きの両方を活かせる映画字幕翻訳の道へ。翻訳や通訳のバイトをしながら、字幕翻訳の第一人者である清水俊二氏に手紙を送り、弟子入りします。

そして大学を卒業してから10年にして、初めて字幕翻訳の仕事を担当。1979年、40歳の時に「地獄の黙示録」で本格的に字幕翻訳者としてデビューしました。

トム・クルーズさんが初来日して以来30年にわたって通訳を務め、ハリウッド映画のエンドロールではほとんどの作品で名前が流れるほどの有名翻訳家です。

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