加藤雅也 若い頃はモデルやハリウッド映画~苦悩を語る~

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加藤雅也さんの若い頃、高校時代からさかのぼる。高校は偏差値72である奈良高校に進学。陸上部ではインターハイに出場した。このあと横浜国立大学の在学中にボクシング部に所属するかたわらモデル活動をスタート。

しかし、ここで最初の苦悩が訪れる。さらにハリウッド映画に出演する際も…。加藤雅也さんの壮絶人生とは…

【「MEN’S NON-NO」公式Twitterより

 

加藤雅也 若い頃~高校・大学時代~

偏差値72というレベルの高い奈良高校に入学した加藤雅也さん。学校の先生から毎日のように「勉強せぇ 勉強せぇ」と言われ続けたといいます。勉学に励みながら陸上部で大活躍。

高校3年生の時には神奈川インターハイに出場し、夏まで運動をしていたとか。周囲の学生はすべて勉強に時間を費やすも、加藤雅也さんはスポーツとの両立を成功させていたのです。

高校3年のインターハイで訪れた三ツ沢競技場。その練習会場は横浜国立大学のトラックでした。そこでウォーミングアップをしていた加藤雅也さんは、広大な土地に立ち並ぶ、多数の白い校舎に圧倒されます。

「わぁ、いいな。こんな大学行けたらいいな」

そう思って横浜国立大学に決めたのだとか。「そんな安易な気持ちで決めた」と話していますが、ここから素晴らしい努力を見せます。

大学4年生だった1985年、同大の系列校の横浜国立大学附属鎌倉中学校・小学校に教育実習に行き、教員免許を取得しました。

 

加藤雅也 若い頃~モデル時代~

大学の授業は真面目に出席していたという加藤雅也さん。大学ではボクシング部に所属しながら学業にもチカラを入れ、単位のほとんどを3年までに取得しています。

そんな大学2年生のある時、友達に誘われたことでモデル事務所のマネージャーと知り合い、「モデルをやってみないか?」と声を掛けられます。

当時はモデル業にはまったく興味がなかったようですが、3年生の時にアルバイト気分でモデルを開始。実際に経験してみると、モデル業に関心が高まります。

しかし「せっかく大学まで来たのに無駄にしていいのか?」とかなり悩んだとのこと。不安定な業界への就職、親にも心配をかけますよね。

“モデル” を一生涯の仕事にするためには雑誌での活躍だろうと思い、自分を売り込みます。しかし、なかなか受け入れてもらえずにいました。

そんな時、「メンズノンノ」という雑誌の増刊号が出ることを知り、編集部に電話。毎月「メンズノンノ」のイメージに合った写真を撮り、新しい写真を半年間ずっと届けたといいます。

こうした努力が実り、「メンズノンノ」のモデルとしてデビュー。

「メンズノンノ」は織田裕二さんや坂口健太郎さんなどのスターを輩出していますが、加藤雅也さんはまさにその先がけだったのです。

当時の仲間には阿部寛さんや桐島ローランドさん、風間トオルさんがおり、一緒に活躍しました。

【「MEN’S NON-NO」公式Twitterより

 

加藤雅也 若い頃~俳優デビュー~

当時はモデル活動をすることに対して母親には心配されましたが、父親は「好きなことをやったらいいじゃないか」と後押ししてくれたようです。

この後、加藤雅也さんは「メンズノンノ」のモデルだけでなく、ファッションショーの出演に憧れました。父親の応援もあり、のちにファッションシー「パリコレ」に出演。

しかし、身長 190センチを超える外国人を目の当たりにし、限界を感じたとのこと。「メンズノンノ」への登場も短期間にて終了し、役者へと転向しました。

加藤雅也:「モデルをやってパリコレに行ったときに、その当時はみんなデカいんですよ。背が190近くてガッチリしてる人たちがトップモデルって言われて…。」

加藤雅也さんは当時183センチ。小さかったため、服がみんな大きすぎたとのこと。

加藤雅也:「そうすると物理的にこれ以上は伸びないじゃないですか。なので、何か違う表現者になる方法は無いのかなってなった時に、俳優をと…」

身長を意識することなくできる俳優を選んだそうです。

25歳の時、1988年の映画「マリリンに逢いたい」に主演し、「第12回 日本アカデミー賞新人俳優賞」を受賞。翌年、NHKの朝ドラ「青春家族」に出演すると国民的俳優として知名度を上げました。

加藤雅也さんは若い頃、現在の名前ではなく「加藤昌也」という芸名で活動しており、数々の映画に登場。1992年には坂東玉三郎さんが監督を務めた「外科室」に出演し、大女優・吉永小百合さんの相手役に抜擢されています。

その後、1995年からはハリウッド映画に挑戦するため渡米し、活動の拠点をロサンゼルスに移しました。

 

加藤雅也 若い頃~ハリウッド映画時代~

加藤雅也さんは1995年、アメリカに渡りハリウッドにも挑戦。自身が出演した映画「クライングフリーマン」を観た現地のエージェントから、誘いを受けたことがきっかけでした。

当時、日本人によるハリウッド映画の出演は大変厳しいものでしたが、熱い気持ちを持っていたようです。

加藤雅也:「ダメだという基準はない。」

アメリカでのオーディションはある程度の魅力は認めてもらえましたが、映画監督に再び呼ばれるも、英語の語学力が足を引っ張り合格には至りませんでした。

当時、ハリウッド映画に出演する際は完璧な発音を求められていたそう。そうしたことを受け、加藤雅也さんはあらためて演劇を基礎から猛勉強。役者としての技量に磨きをかけました。

若かりし頃のハリウッドでの挑戦は、今となって糧になっていることでしょう。

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加藤雅也 若い頃の「青春家族」を振り返る

加藤雅也さんは「NHKアーカイブス」の インタビューにて1989年に出演した「青春家族」の頃を振り返りました。

あらためて30年前の自分を見た加藤雅也さん。「若い!」と一言。当時の演技は危なっかしくて見てるのが怖かったようです。

加藤雅也:「いつどこでセリフが脱線するのか、放送済みの作品だからそんなことはありませんが、危うさがむちゃくちゃありますね。」

当時は映画「2.26」や「帝都大戦」の撮影期間でもあり超多忙。作品に恵まれ、次から次へと出演が決まりました。

NHKの朝の連続テレビ小説といえばあらゆる役者が出演に憧れ、決まれば緊張がつきまといますが、加藤雅也さんは忙しすぎてそうではなかったとのこと。

加藤雅也:「(忙しすぎて) かえって自然体で入っていけたのかもしれません。」

また、そうした自然体でいられた理由は、女優のいしだあゆみさんの人柄が影響したといいます。

加藤雅也:「初日からあゆみさんは垣根なく接してくださり、おかげですんなり撮影に入ることができました。」

空き時間には一緒に炭酸飲料を飲んだり、誰かが面白いことを言ったせいか、いしだあゆみさんが鼻から炭酸を出してしまったことも。

加藤雅也:「大女優なのに一緒に居ると肩の力が抜ける気さくなお人柄で、楽しく共演させていただきました。」

26歳で新人俳優となった加藤雅也さん。若い頃に出会った役者たちとの絆、そしてこうした経験が今の役者人生を作り上げていったようです。

今、加藤雅也さんはコロナ禍となり、自分の仕事を待っていてはダメだと、自給自足できる能力をどこかに持ち得るべきだと考え始めました。

そしてカメラを持ち、写真を開始。プロ並みの腕前を見せています。自分でプロデュースできる能力を持っていないとわからない将来の日本での活動。

加藤雅也さんは今、しっかりと先を見据えていました。

 

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【「ウルトラマンブレーザー」公式Twitterより 】

 

加藤雅也 プロフィール

本名・加藤雅也(かとう まさや)

生年月日・1963年4月27日

出身地・奈良県奈良市

身長・180cm

血液型・A型

学歴・奈良県立奈良高等学校、横浜国立大学教育学部保健体育専攻

1986年、「MEN’S NON-NO」の創刊号からモデルとして活躍し、その後は俳優に転身します。1988年、「松竹」の新人オーディションで応募者数3000人の中から選ばれ俳優デビュー。

1988年、映画「マリリンに逢いたい」に主演し、「第12回 日本アカデミー賞新人俳優賞」を受賞しました。この後、渡米してハリウッド映画にもいくつか出演。

2019年より奈良県の観光大使を務め、奈良テレビ放送で自身の冠番組となる「加藤雅也の角角鹿鹿」が放送されています。

2023年は映画「BAD CITY」「スパイスより愛を込めて。」「1秒先の彼」「カムイのうた」、ドラマ「リバーサルオーケストラ」「ウルトラマンブレーザー」に出演。

加藤雅也さんは教員免許(小学校教諭一種免許、中学校・高等学校保健体育教諭一種免許)、普通自動車免許、スキューバダイビング免許、大型自動二輪車免許を所持しています。

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