吉行和子 結婚した夫は照明マン「私が死んだ時…」家族から得た経験~子供はいるのか~

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テレビ東京「チマタの噺」で結婚について言及。吉行和子さんの結婚歴は28歳の時に1度。夫は同じ劇団の照明マン・秤屋和久さんという5歳年上の一般男性。

順調に見えたが吉行和子さんは4年後に離婚。子供はおらず、以降は独身を貫いている。現在、自宅生活では死を見据えて様々なことを考えるという。母親や妹、家族から得た経験とは…

【  ドラマ「執事西園寺の名推理 2」公式Twitterより

 

吉行和子 結婚した夫は照明マン~子供はいるのか~

吉行和子さんの結婚歴は1度。28歳の時に5歳年上の一般男性と結婚しました。結婚相手の名前は「秤屋和久 (はやりや かずひさ) 」さんといい、職業は舞台の照明さん。

結婚した1963年は吉行和子さんにとって女優業が大忙し。結婚生活は順調に見えましたが、2人は入籍から4年後に離婚されました。これまでに吉行和子さんに子供は誕生しておらず、以降は独身を貫いています。

結婚生活中の1963年から1967年は、映画やドラマの撮影が重なり超売れっ子女優として多忙でした。

  • NHK「虹の設計」(1964年 – 1966年)
  • 日テレ「日産スター劇場 堂々たる人生」(1963年)
  • 日テレ「剣 第23話 岡場所の女」(1967年)
  • TBS「別れる」(1964年)
  • TBS「雪崩の行方」(1965年)
  • TBS「続・ママ日曜でありがとう」(1965年)
  • TBS「黄色い雨傘」(1967年)
  • フジテレビ「わんぱく同盟」(1963年)
  • フジテレビ「三匹の侍 第1シリーズ 第13話 生々流転」(1964年)
  • テレビ朝日「貸間あり」(1963年)
  • テレビ朝日「晩鐘」(1964年)
  • テレビ朝日「判決 第1シリーズ 第55話 北僻の人」(1963年)
  • テレビ朝日「素浪人 月影兵庫第1シリーズ 第15話 法華太鼓が響いていた」(1966年)
  • テレビ朝日「ナショナルゴールデン劇場  いまに陽が昇る」(1967年)
  • 映画「黒い海峡」(1964年) 
  • 映画「父と娘の歌」(1965年)
  • 映画「こころの山脈」(1966年)
  • 映画「旅路」(1967年)

吉行和子さんは、4年間の結婚生活の中で一度も食事を作らなかったそうです。

 

 

吉行和子 結婚した夫との馴れ初め

夫・秤屋和久さんは吉行和子さんと同じ「劇団民藝」に所属していました。2人は女優と照明担当者という関係で出会っています。結婚当時、昭和38年11月25日号の週刊「ヤングレディ」では馴れ初めを掲載。

新劇女優の吉行和子さん(28)は、同じ劇団の照明マン・秤屋和久(はやりや かずひさ)さん(33)とこのほどひっそり結婚した。

この週刊誌では吉行和子さんが「2人の愛の形」を綴っています。その中で、結婚式をせず新婚旅行にも行かないということが伝えられました。

2人の結婚は目立たず、ネット上にもほとんど結婚相手の情報は残っていません。吉行和子さんは1957年から1969年まで劇団民藝に所属。この期間内に結婚し離婚しています。

「劇団民芸」とは

劇団民藝(げきだんみんげい)は、神奈川県川崎市麻生区に本拠を置く新劇団のひとつ。「株式会社劇団民藝」が運営しています。過去には中尾彬さん、真野響子さん、山田康雄さん、いっこく堂さんなどが所属していました。

秤屋和久さんと離婚して以降、独身を貫いている吉行和子さん。恋愛への気持ちは持ち続けているようです。

吉行和子:「恋心ですか?もちろん、死ぬまで持っていたいですよ。恋心は自然とわいてくるもの。異性にドキドキする気持ちは大事だと思います。」

 

吉行和子 結婚した夫との離婚理由

家庭的な母親役や祖母役をこなしてきた吉行和子さん。私生活では家事が苦手で、自宅にはヤカンすらないと明かしたことも。

また「台所を汚したくないから」といった理由で、料理を一切してこなかったのだとか。結婚生活においても夫に料理を作らずに拒否したため、それが原因で離婚したと告白。

しかし、80代になってようやく包丁を購入したといいます。吉行和子さんはどちらかというと、料理ではなく裁縫が得意。幼少期から編み物やお人形の着物を縫うなど手先が器用だったようです。

2018年6月1日掲載の「週刊朝日」でも自身の離婚について振り返りました。原因については「まだ若くて相手に対して “なんで分かってくれないの“ という思いが強かった」と反省も。

吉行和子さんが自分で何でも決めてしまい、夫から「どうして相談してくれないの」と驚かれたこともあるのだとか。まず、誰かに相談するという発想すらなかったといいます。

若気の至りは誰しもありますよね。年を重ねてみて初めて振り返った時に悔いることは多々あります。

吉行和子:「結婚してみて初めて、自分がいかにマイペースで、相手のことを気にしないかがわかりました。相手がどういう人だったとしても、長年連れ添うのは無理だったんじゃないかしらね。」

このように自身の性格を責めていますが、そもそも「結婚」には関心がなかったのだとか。

吉行和子さん:「結婚して旦那さんに養ってもらうつもりは最初からありませんでした。」

学生時代の頃は女友達の間で、「どんな旦那さんが理想か」「結婚式は着物かドレスか」などの話に花が咲きますが、吉行和子さんは一切興味なし。

さらに、幼少期の父親の死やシングルマザーとして育ててくれた母親の影響、そして11歳年上の兄の夫婦関係のゴタゴタを見てきたことも「結婚は幸せではない」という印象を与えたといいます。

自身の離婚を振り返り、テレビ東京「チマタの噺」では当時の思いを告白。

吉行和子:「(離婚届の詳細を把握したり) それどころじゃなかったんですよね。早く離婚したくて(笑)。うんと若い頃にちょっと結婚してみて、ちょっと離婚してみたって感じなんです。」

映画「湯道」公式Twitterより

 

吉行和子 結婚せず夫なし~現在独身でいる理由~

夫・秤屋和久さんとの離婚以降、独身を貫いている吉行和子さん。結婚に熱い思いを注げなかったのは、幼少期から「家族のぬくもり」や「家庭の味」を知らずに育ったからかもしれないといいます。

NHK連続テレビ小説「あぐり」でモデルとなった母親の吉行あぐりさんは、戦前から美容師として活躍。兄は女性関係で話題となった人気作家の吉行淳之介さん。父親の吉行エイスケさんと妹の吉行理恵さんは作家。

吉行和子さんは「少し変わった家族」と表現し、家庭の味は女優の仕事を通して知ったと話しました。お正月には、お節やお雑煮をみんなで食べることはなく、それぞれ好きなことをして過ごしていたそうですよ。

そんな父親や母親、兄、妹すべてが他界した現在、ひとりきりで自宅生活を送っていますが「寂しくない」とのこと。2023年3月2日の「婦人公論」のインタビューでは、亡き母・吉行あぐりさんとの思い出を振り返りました。

吉行和子:「母とはずっと同じマンションの別々の部屋で暮らしていて、私がしょっちゅう母の部屋を訪ねていたんです。 いなくなられて改めて思ったのは、親って生きているだけで、どこか安心感を与えてくれる存在だったんだなあということ。」

母・吉行あぐりさんは亡くなる10年前から寝たきり生活。吉行和子さんは寝たきりでもなんでも、とにかくそこにいてくれるだけでよかったのだとか。

しかし、いざ亡くなってみると、思いのほか寂しさを感じなかったといいます。それは、幼少期からひとりで過ごす時間が長かったから。「いつも通り、ひとりで過ごすことになっただけ」という感覚になったそうです。

そんな、「家族と一緒にいるのが楽しい」という感覚がないままでの結婚でした。

吉行和子:「28歳のときには一応結婚もしました。でもね、早々に “あ~、失敗した“ と感じてしまって。なんとか4年間頑張ってはみたけれど、やはりダメだった。私はひとりでなきゃ生きられないんだ、と確信しました。」

このように確信して以降、吉行和子さんはずっとひとりでいることを決意。「子供が巣立ったり、夫に先立たれたりして寂しくなることもない」とポジティブに捉えているようです。

ある意味たくましく、サバサバと割り切った女性と受け取れ、吉行和子さんのような生き方もカッコ良さがありますね。

 

吉行和子 結婚せず夫なし~現在1日5000歩生活~

吉行和子さんは2歳で小児喘息を患い、病弱な子供時代を送りました。病気ばかりしてしまい、夢もなかったといいます。

父親は4歳のときに他界、母親は家計を支えるため美容師として多忙。ひどい喘息の発作が起こると、岡山県の祖父にあずけられていたのだとか。

喘息は成年しても治らず、ずっと喘息の薬を飲んでいたという吉行和子さん。しかし、52歳の時に鍼治療で症状は改善。現在は健康に気づかい、1日5000歩を目指して歩いているとのこと。

女優の仕事は容姿の美しさが問われるかもしれませんが、「もう仕方ないですよ、衰えて当然」と吉行和子さん。それよりも、動ける体であり続けることを大事に考えているのだとか。

吉行和子:「体のために続けているのは、1日5000歩を目標に毎日歩くことだけです。」

真夏の暑い日にちょっとサボってしまったら、みるみる足が弱ってしまったそう。それ以降、スマホアプリを活用し頑張っているとのこと。ただ、アプリがスパルタで「目標に〇〇歩足りない」「昨日から〇〇歩減った」など、いちいち言葉を発してくるといいます。

ここで吉行和子さんはアプリを削除せず、言われないですむように一生懸命ウォーキング。さらに自宅では、2022年に入会した「Netflix」で映画を観ているのだとか。この行動力こそが、吉行和子さんの若さと美貌の秘訣かもしれません。

1日5000歩のウオーキングも驚きますが、セリフ覚えの努力も積極的。ずいぶん前から記憶力が落ち始め、不安に感じていたようですが、努力でカバーしているとのこと。

吉行和子:「今は120%覚えてから現場に入るようにしています。」

耳にも衰えを感じているという吉行和子さん。相手のセリフが聞き取れないと失礼になるため、相手のセリフもきちんと覚えて現場に入るといいます。80代になった今、より一層の努力と勉強を積み重ねていました。

 

吉行和子 結婚せず夫なし「私が死んだ時…」

吉行和子さんは2006年に妹の理恵さんを亡くし、2015年には母親を亡くされました。母親の介護生活の中では自身の行く末を考えたそうです。

吉行和子:「片付けは動けるうちに自分でしておかなくてはいけない…他人の物を処分するのは大変なんです。 」

家族の最期を見届け、あらためてそう感じたのだとか。実際の片づけでは、妹が大切にしていた大量の本を自分ひとりでは手を付けられず、業者の方にお任せしたといいます。あっという間に片付いたものの、とても胸が痛んだそう。

さらに、母親が大切に使っていたハサミや電気アイロンなどを悩みつつも処分すると、朝ドラで人気を得た母親の私物は、「道具や写真を借りたい」との問い合わせがきて後悔したとのこと。

吉行和子:「私が死んだ時、こんなことを誰かにやらせたくない…」

日頃から自分の物をこまめに捨てるようにしているのだとか。

これまで使えそうな舞台衣装を見つけてはいつか使うだろうと購入していたそうですが、友人にあげたり、劇団に引き取ってもらうなどして今はスッキリ。

吉行和子:「私がこの世からいなくなったときの後片づけはきっとラクだと思うわ。」

母親の死を受けて、自分がこの世を去った時のことを考え、今はどこの介護施設が良いか情報収集済みだといいます。

誰もが経験する最期。吉行和子さんは周りの方を気づかい、しっかり準備されていました。そのうえで女優として輝き続けていたのです。

吉行和子さんは日本のお母さん的存在で、一度演技を観ればとても印象に残る女優さん。今後もお元気に活躍し、みんなに笑顔を届けてほしいですね。

吉行和子:「最後の最後まで仕事をして死にたいというのが私の希望ではありますが、そうじゃない場合に備えておくことも大切ですよね。」

 

吉行和子 プロフィール

本名・吉行和子 (よしゆき かずこ)

生年月日・1935年8月9日 

出身地・東京府(現:東京都)

血液型・B型

身長・158センチ

学歴・女子学院高等学校

中学時代に観た「劇団民藝」の芝居に感動し、卒業前に「劇団民藝付属水品研究所」を受験して入所しました。

当初、絵を描くことや裁縫が得意だったことから衣装係としての採用を希望していましたが、思いがけず女優候補として入所。

1955年、「アンネの日記」で初舞台を踏み、同年には映画「由起子」でスクリーンデビューしました。1959年、日活と契約すると「にあんちゃん」「才女気質」での好演で「毎日映画コンクール女優助演賞」を受賞。

1957年、「劇団民藝」に所属し、1969年に退団してフリーになります。1974年の舞台「蜜の味」で「紀伊國屋演劇賞個人賞」を受賞。

1978年、映画「愛の亡霊」では「日本アカデミー賞優秀主演女優賞」を受賞します。女優のみならず、かつては「おかあさんといっしょ」で「お話のお姉さん」としても活躍。

1983年にはエッセイ集「どこまで演れば気がすむの」を出版し、「第32回日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞しました。2023年、映画「湯道」「愛のこむらがえり」に出演。

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